「宗教」に、エビデンスはある?

たわいのない会話から、

最近、話題の、

「宗教」の話に、進んでいった。

 

友人は、

「化学」には、エビデンスがあるが、

「宗教」には、ないので、

説得力に欠けると言う。

 

敬虔なクリスチャンの叔母に、

何度か、勧められたが、

仕事を理由に、断り続けてきた。

 

理由は、

「教会は、組織の事務所」であり、

神は存在しないと、言う事、

人間は、

「アダムとエバの子孫」と言う、

エビデンスが、ない事。

 

人間の始祖は、

塵芥から、

生成された「生命体」であり、

進化を遂げて、

明らかに、他の生物と違うのは、

科学者達が、

ホモサピエンス」によると、

現時点では、証明している。

 

人間のメカニズムの中に、

目には、映らない、

サイコロジー的な

発想や、創造性や、感性が、

横たわっている。

 

掲げられた十字架は、

戒めであり、

ステンドグラスの美しい光の中で、

白日の元で、真実が晒される。

 

リトマス紙みたいな、

教会で、

「私は、何色?」に、

変容するのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「気づかない幸せ」探し

台風の風が、

夏を追いやって、

「秋晴れ」の青い空が広がる、

朝が来た。

 

いつも通りの、

何気ない一日の始まり、

「気づかない幸せ」が、

見えて来る。

 

朝一番の、カフェオーレを、

立ち飲みしながら、

静謐な部屋を、見渡せば、

「気づかない幸せ」が、漂う。

 

ゆっくりと、

時間が流れる、

休日の、静かな朝、

 

お迎えのバスも来ないから

隣の坊やの、

泣き声が、聞こえない、

可愛い寝顔が、浮かんでくる。

 

久しぶりの、好天気に、

「出掛けな、損損!」

と、掛け声だけは勇ましく、

足腰痛いは、「生きてる証拠」

と、言い聞かす。

 

ニュートンが、

落ちるリンゴから、

想像した、「丸い地球」を、

満喫して、

予想通りの、疲れに、

「バタンキュー」

 

「気づかない幸せ」探しなど、

何処にでもある事を、

実感した、

「秋の休日」である。

 

 

 

 

 

「彼岸と比岸」あの世とこの世

今日は、

秋分の日?」

相次ぐ、台風に、

振り回された、一週間である。

 

私たちの世代は、

秋分の日の前後の、7日間を、

「お彼岸」と、呼んできた。

 

いつの日から、

「シルバーウィーク」と、

なったかは、定かでは無いが、

軽やかで、良い感じかも。

 

「彼岸と比岸」

あの世とこの世が、

交流するという「習わし」で、

幼い頃、

「意味不明」と、思いながらの、

お墓参り。

 

千の風」のなかで、

「私は、お墓にはいません」

と、歌われた時には、

「そう、そう、その通り!」

と、変に共感したものである。

 

この歳になると、

風の便りで、

近しい人達の、悲報が届くが、

ほとんどが、

家族葬」の、事後報告である。

 

「昔のお葬式」は、

大きな式場で、

お金に糸目をつけずに、

送り出す事が、亡き人への尊厳であった。

 

決められたセレモニー、

お酒や、ご馳走が並べられ、

誰の為か分からない、

亡き人の、追悼どころでは無い、

「お葬式」に、抵抗感があった。

 

最近は、

身内だけの「小さなお葬式」が、

静かに、細やかに、行われている。

大切な人は、

お墓でもなく、何処でもなく、

心の中に、いつも存在している。

 

時代が、移り変わる中、

イギリスの、エリザベス女王の、

「荘厳な国葬」が、執り行われた。

 

女王として、

「生きて来られた姿勢」に、

世界中の人々が、感銘を受け、

見送る人々の、

純粋な心模様が、伝わって来る。

 

数日後、

日本でも、執り行われる

国葬」が、

邪心や私利私欲の温床に、

ならない事を、願うのみである。

 

 

 

 

 

「安定人生」も「冒険人生」も、最後は一緒

かつて、

経験した事のない、

未曾有の時代に、突入した。

 

「長い旅」も、

終盤を、迎えている。

人が、誕生して、

死ぬ迄のドラマを、脚本したのは、

自分自身である。

 

理不尽な事に、

「抗い、生きる事」も、

エネルギーはいるが、

「受け入れて、生きる事」も、

かなりの、忍耐力がいる。

 

周りを見渡せば、

色々の意味で、

「損得」を、優先した人達は、

生活苦からは、逃れて、

「安定人生」を、満喫して来た。

 

「好き嫌い」を、

選択肢に入れた人達は、

インディジョーンズの様な、

「冒険人生」を、謳歌して来た。

 

生きて、100年、

歴史的には、ミクロの数字であるが、

「人一人の人生」の時間としては、

濃密な期間であった。

 

ほぼ、70年を、

生き抜いた人達は、

まあ、こんなもんで、

「幕を下ろす」のも、納得の内。

 

と、思っていたが、

科学と医療の進歩で、

そう、簡単には、終わりにならず、

「肉体の死」は、避けられるが、

 

「社会的な死」や、

「精神的な死」との、

戦いが、始まるのである。

 

高齢者には、三段階があり、

「前期高齢者」

後期高齢者

「超後期高齢者

区別ではなく、

今時は、「差別?」されてる感もある。

 

その歳の、数字が書かれた、

ドアを開けるたびに、

「死へ向かう」道のりみたいに、

心の準備?

 

「安定人生」も、

「冒険人生」も、最後は一緒、

 

此処からは、

同じスタートラインに、並んでる。

本当の、

生老病死」との戦いが、

また始まるのである。

 

 

 

 

 

 

依存して来た「子供達」

「子供の心」に、

触れて来なかった、

親は、

「子供の人生」に、

ズカズカと、介入してくる。

 

現代は、

「子供が、可哀想」

と、至れり尽くせりになって、

親からの「支援」を、

惜しまず、介入してくる。

 

そんな親に、

依存して生きて来た「子供達」は、

大人になっても、

国や会社に、依存する。

 

コロナになったら、

国からの給付金、

物価高になったら、

補助金対策、

「もっと、もっと」と、

願っている。

 

政府の、

失態は、いつも「うやむや」

何をやらかしても、

何がばれても、

説明なしで、知らん顔。

 

果ては、

命より経済対策で、

やっては見たが、チグハグ政策、

世論調査にビクビクしながら、

的外れの、チョロチョロ支援。

 

買いためて来た、

膨大なドルが、

「日銀の金庫」に、タンス貯金?

いつの時代も、

何が起こっても、

国会議員には、生活苦などは無い。

 

政府が、「親」だとすれば、

その場凌ぎの、

飴玉作戦に見えて来る。

 

国民が、

「子供達」だとすれば、

本当の民主主義、自由主義と、

呼べる、未来に、

到達出来るのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

財布忘れても、スマホ忘れず

窓の、カーテンを、

押し退ける様に、

過ぎ去った、台風の風が、

吹き抜ける。

 

暗闇から、脱出した様に、

太陽の光と、青空が、

広がっている。

 

「未曾有の台風」

と言われて、

身構えていた心が、安堵する。

 

昔から、

「台風と秋」は、ワンセット、

被害が、落ち着かない内に、

優しい風が、吹いて来る。

 

遠くに、聴こえる、

秋祭りの、太鼓の音や、

暑さで、焼けた緑の葉が、

色づき始める。

 

「昔はね」

とは、言えない程の、

自然や世の中の、変容に、

老人は黙るしかない。

 

何もかもが、

極端になって、

うっかり、発した言葉が、

差別用語」に、該当する。

 

「男子たるもの!」

「女性なら!」

みたいな、枕詞は、禁句である。

 

テレビの、

デジタル化された、天気予報も、

「よう、分からん」のである。

 

ヤン坊、マン坊」の、

昔の天気予報、

「晴れ、曇り、雨」マークが、

簡単明瞭で、懐かしい。

 

針で示した、時間から、

数字で表す、時計に変わり、

「よう、見えん」時もある。

 

「日めくりカレンダー」も、

姿を消して、

走馬灯のように、過ぎ去る月日に、

いつの間にか、

スマホに慣れた私がいる。

 

分からん事なら、

知りたい事なら、

話したい事なら、

スマホ一つで、片付く世の中、

 

「後生大事」に、

「肌身離さず」、

財布忘れても、スマホは忘れず、

 

こんな、

小さな機械の中に、

「一番、大切なもの」が、

本当に、入ってる?

一人暮らしの老婆が、呟いている。

 

 

 

 

この静けさの中で、

何処にミサイルが、

飛んでくるかわからない、

ウクライナの夜、

 

今は、

生暖かな風の中に、

冷たい、霧雨が舞っている。

近くで、遠くで、

台風の、警報が鳴っている。

 

いきなりの、

サイレンが来たら、

暴風雨の中で、

「命を落とす」かも知れない。

 

日本列島、

真っ赤な、危険地域のど真ん中、

「襲われる」感覚は、

この静けさの中で、

まだ、感じてはいない。

 

雨に濡れた道を、

「ジョリジョリ」と、音を立てて、

戦車が向かって来る、

「気配」がある。

 

風速40メートルの、渦の中、

吹き飛ばされる、感覚は、

味わったことはないけれど、

 

電信柱の影に隠れて、

向かい風に、抗って、

吹き荒れる嵐が、止むのを、

待っていた少女の頃、

 

誰も、

助けにも、来なかった悲しみを、

台風が、来るたびに、

思い出す。

 

10月の、

台風の季節に、「母は、死んだ」

セーラー服が、

透き通るほどに、雨に濡れて、

 

迎えには、

決して来ない母を、

待って、待ち続けて、

立ち尽くしていた雨の中。

 

いつもと違う、

雨音を聞きながら、

「生きてる事が、奇跡かも」と、

強い自分が、

励ましてくれている。