さようならと言える別れ方

私達と同じ時代に、

活躍された、藤木孝さんの自殺報道を

知りました。

 

最近は、

「自殺」を「自死」と書かれている。

 

「自殺」は、

自分で、自分を殺すと書き、

非道徳的と見られていた時代に、

その死自体を、抹殺してしまう。

故人の尊厳など、全く認められないのである。

 

自死」は、

自らの死を、少し肯定する感がある。

計り知れない想念の螺旋の中を、

飛び散ってゆく命は、壮絶である。

 

一瞬の隙を狙って、命がたたれる。

追い詰められる前に、決着をつける。

貴女が、どれほどの価値があるかを、

知らぬままに、逝ってしまう。

 

「待って欲しい」と、懇願しても、

「行かないで!」と、両手を広げて、

制止をしても、誰をも見ようとしない。

 

そこに至る経緯も、理由も、

それぞれに有り、ボールは外して投げてくる。

最初から、キャッチボールなど、

しようとはしない。

 

それでも、生きてる意味を、

生きれるチャンスを探し続けていた事を、

私は知っている。

透き通ったガラスの向こうで、

笑った顔を忘れはしない。

 

穏やかな時間の中で、

貴女の背中を、押したのは誰?

壊れかけた心を踏みにじったのは、何?

 

この世で一番、

貴女が信頼している人は、

貴女を生かすことも、殺すことも、

出来てしまう憤りを、

誰にも、ぶつける術が無いのである。

 

三者の私には、

手の届かないところに、貴女はいる。

人の死は、出来れば、

「さようなら」と言える、

別れ方が、望まれている。