忘却の世界にいても

朝、目覚めると、

時計の針を刻む様に、脳が覚醒してゆく。

 

間違える事なく、

いつもながらの習慣通りに、

事は進み、片付いてゆく。

 

生まれた時からの習慣は、

記憶やの中に、張り付く様に、

脳の一部となり、忘れる事はない。

 

貴方の名前を忘れても、

どこにいるかを知らなくても、

人間として生きてきた証は、

しっかりと、行動に現れる。

 

優しい肉体は、不安定な心を支えている。

忘却の森を彷徨い、

狂気の沙汰に落とされても、

貴方の身体は、大切な魂を守り抜く。

 

呆然と、空を見上げ、

鳥の声に耳を傾ける。

緑の葉っぱが、少し色づいて、

窓のガラスを、彩ってゆく。

 

爽やかな風が、

少し伸びかけた細い髪を、靡かせている。

「涼しくなったねー」

背中から、声をかけると、

静かに頷く、貴方がいる。

 

震えるほどに、辛かったあの事も、

大好きだったあの人に、

抱きしめられた温もりも、

子供達の小さな手をひいて、

真夏の道を歩いた事も、

 

貴方の大切にしている、

パンドラーの綺麗な箱に、

しまっているから、安心してね。

 

いつのまにか、歳を重ねて、

貴方は、認知症になったけど、

私の脳の中に、

大切にファイリングされている。

 

いつの日か、誰もが、

貴方と同じ様に、忘却の世界に行く。

一人ぼっちじゃないから、

「泣かないで!」

 

悲しいことだけは、

忘れていない肉体が、そこにある。