何故か、高齢者のなかには、
年寄りとは思っていない人が多い。
「この人、医療介護の仕事してるから」
と、友人が、私を、高齢者に紹介すると、
「いずれ、お世話になりますわー」
「そうなる前に、山登りやテニスに、
忙しいてー」
まだまだ、自分には遠い話である。
そう言ってた当事者が、
あっという間に、遠い人から近い人になる。
家族が、
「お父さん、年寄りやねんからやめたら?」
「お母さん、無理したら骨折るよ!」
と、言おうが、
「かまへん、かまへん大丈夫!」
と、言うこと聞かない人が大丈夫ではない。
「頭も身体も、ずいぶん衰えたな」
と、認識している人の方が、
結構、長持ちする場合がある。
そして、
宇宙の摂理を甘受している人は、
教養もあり、聡明である。
綺麗に、張り詰められていたタイルも、
知らないうちに、1枚ずつ剥がれていく。
生きている人間の宿命である。
先急ぐ様な、
生き方はしたくはない。
あるがままに、残る人生を、
ゆっくりと、暮らしていきたいと、
望んでいる人もいる。
死に様は生き様であり、
死もまた、生の内に組み込まれた、
その人の人生である。
もっと生きたいと、のたうちまわる人も、
後悔と、反省で、悔いる人も、
充実した人生と、思っている人も、
死の瞬間は、
神の手に、魂が抱かれて導かれる。
生きて与えられし全てを、
返す事が、高齢者となってすべき事。
霞んだ眼、聞こえづらい耳、
おぼつかない足取り、
衰えた反射神経。
思い上がった心が、
「大丈夫」と、思い込み、
事件や事故に巻き込んで、
未来ある子供達の命を奪う。
どれほど、社会に功績を残した人でも、
「人を殺すために、生まれてきた」
と言う人生になってしまうのである。