少し長めの傘も、おしゃれな杖も、
スーパーのカートも、
私のお出かけを、助けてくれる。
歳を重ねていくほどに、
私の脚は、衰えていく。
「人工骨頭の手術」を勧められてから、
15年は過ぎたが、
まだ、二本足で立っている。
生死に関わる事ならば、
「即手術」を選択したとは思うが、
身体に異物を入れる事に、
抵抗があり、今に至っている。
自分の事には、無頓着な人間なので、
その答えが良かったかは、疑問である。
「口さえ、達者ならいけるか!」
で、仕事も、どんな遠くても引き受けた。
さすがに、
最近は、不自由なことが多くなり、
遠くや広い場所には、車椅子を活用する。
車椅子の世界は、
同じ空間の中にいても、
まるで次元が違うほどの違和感がある。
私の目線は、人のお腹のあたりで、
相手も、近寄ると視界にはなく、
ぶつかる人もいる。
子供は目線が一緒なので、
向こうも「何者?」みたいな顔をする。
歳が同じくらいの女性達は、
「気の毒そう」に、目をそらす。
意外に若い人たちは、自然体。
乳母車の赤ちゃんは、
仲間だと思って、笑ってくれる。
日本は、障害者に対して、
「まだまだ、遅れているな」と感じる。
まず、道はガタガタ、段差は多い、
立ち往生の姿を見ても、
なかなか、
「Can i help you?」とは、
すぐには、声はかからない。
特別扱いして欲しいとは思わないが、
自動ドアなら、スルーできるが、
観音開きの古いドアは、
てこでも、動かないのである。
行く先も、トイレで決めることがある。
障害者用ではなくても、
せめて、洋式トイレがあれば、ありがたい。
未だに、
和式トイレと、遭遇すると、
どう、ひっくり返っても、無理難題。
道が悪くても、段差があっても、
ドアが、観音開きでも、
トイレが整備されていなくても、
そんな事が、不満なのではない。
困っている時に、
優しくサポートしてくれる人さえいれば、
身体が不自由でも、心は自由に、
どこにでも行けるのである。