永遠に変わらないもの

クリスマスの余韻など、

味わう暇もないくらい、

あっという間に、

年の瀬に切り替わる。

 

相変わらずの、コロナ関連の、

気分の悪いニュースが流れているが、

「後、いくつ寝ると、お正月!」

と、アナウンサーが打ち消す様な笑顔。

 

なんだかちぐはぐなメディアに、

うんざりはしているが、

日本の空気に合わせての対応だろう。

 

日本人は、一般的には、

「事勿れ主義」的要素があり、

手に負えないことや、経験がないと、

諦める人が多い。

 

70歳以上の人間は、

「辛抱」、「我慢」など強いられ、

「誰のおかげで、食べていけてる」

と、親からの精神的呪縛もあったので、

致命傷ではないが、切り傷には慣れている。

 

しかし、

時代の移り変わりの中で、

情報は、つぶさに入る世の中になり、

閉鎖的な考えは薄らいでいった。

 

「隣のあの子は持ってるのに、

なんでうちにはないの?」

と、言われると、

あの辛い、「辛抱」は、させたくないと、

我が子だけにはと、解放に向かったのである

 

そんな自由を履き違えた若者達もいて、

「何が起こっても、何とかなるさ」

「お金があれば、宇宙に逃れる」

位の、私だけは大丈夫理論的発想。

 

長い歴史の中で、

太い綱も、細くなり、

そのつなぎ目も緩くなる。

世の常であり、摂理である。

 

年老いた長老が、

「ふんどしを締め直して頑張りましょう!」

と、叫ぼうが、言語は通じないのである。

「ふんどし」など、見たこともない若者に、

言う方もアホである。

 

私たちの育った時代とは異なる感性が、

若者達の心には温存されている。

親が知らない間に、育まれている。

 

人の悲しみを目の前にして、

お婆ちゃんも、母親も、娘も、

お爺ちゃんも、父親も、息子も、

同じ場面で、同じ涙を流すのである。

 

誰しも、悲しみや苦しみは、

時代が変わっても、

永遠に変わらないものである。

だから、希望は生まれるのである。