命の価値を知る時間

二重のカーテンすら、通すほどの光に、

「再度、積雪もあるほどの寒さ」

の、天気予報を疑ってしまう。

 

窓から見える、騙し絵の様な風景に、

うっかり、薄手のコートを着て、

外出したら、震え上がって大失敗!

 

てな事には、なりたくなくて、

今日の買い物には、ファーのついたダウンを、

着て行こうと、遅めのモーニング。

 

小さな街の小さな家の小さな部屋で、

ささやかな食事が取れる事に、

「感謝!感謝!」と、ひとしきり。

 

もはや、音を消去しても、

内容がわかるほどのテレビのコロナ報道。

想像を絶する、感染拡大の数字ではあるが、

今のところ、

周りの知り合いからは、感染者はいない。

 

徹底感染防止派の神経質な私も、

普段通りの暮らし派ののんびりな友人も、

共に無事なのは、ホッとする。

 

残る余生、大切な時間、

思い残す事なく、

「好きな事して、生きるわ!」

と、動き回っていた友人達にも、

歯止めはかかり、しばし休憩状態である。

 

「好きな事」が、思いつかない私としては、

コロナ以前とは、さほど変わらぬ暮らしぶり。

若い頃に、

人の倍ほど働きすぎた私には、

この静謐なひと時が、

「好きな事」だったかもしれない。

 

風の便りで、

「〇〇さんが、癌で入院したみたい」

「〇〇ちゃん、鬱になっておかしくなった!」

古き友人達の、悲しい話が聞こえてくる。

 

私達高齢者は、

コロナにかかる前にも、後にも、

歳相応の切ないエンディングがある。

 

息子や娘達には、

すでに、バトンは渡されて、

なんの心配はないけれど、

やっと手に入れた自分時間に、

容赦なく、苦しい事がやって来る。

 

「思い残すことのない人生」

なんて、理想的な最期はない。

歳を重ねていく中で、

断ち切られる様に、寿命は終わる。

 

若い人達の元気な姿に、

自分が投影されて、喜びに変わる。

そして、

朝の日差しの中に、命の価値を知るのである。