「様子観察」の大切さ

私のブログは、

私が私を観察するカルテみたいなもの。

 

この二年間は、

コロナ禍で、自粛生活、

仕事も休止で、人とも会わない。

 

個人行動が多くなり、

他人の行動の「様子観察」が、増えた。

自分のカルテではなく、

人のカルテになってしまった。

 

外出先で、

高齢の女性が、10センチの段差を、

越えられず、四苦八苦してるのを、

立ち止まって、見てしまう。

 

血を流して、倒れていたり、

苦しそうな人には、

声をかけたり、助けようとはするが、

自分でやろうとしてる人には、

手は出さず、「様子観察」してしまう。

 

「もう、一歩!頑張れ!」

と言うところで、お節介な人が、

手を貸してしまう。

 

もうちょっとで、この人が味わえた、

「達成感」を、失ってしまう。

人は、高齢者や、障がい者の人達を、

見ると、「助けたい」欲求が起こる。

 

優しさや親切は、

もちろん相手にも、有難い、

それ以上に、嬉しいのは、

助けた人の、

「良き事」が、できたと言う喜びである。

 

痛くも痒くもない

健康な人の世界からすれば、

ドアさえ開けれない、

段差一つ越えれない世界の人は、

「気の毒」に、思ってしまうのは、

当然だと思う。

 

健康な人も、そうで無い人も、

哀しみも、苦しみも、喜びも、

等しく、やってくる。

何を越えるかが、違うだけである。

 

痛くても、不自由でも、

「此処を、越えれば」と、

勇気と希望につなげて生きている。

 

そばで、

目を離さず、見守る気持ちで、

「様子観察」してあげれば、

子供も大人も老人も障がい者も、

頑張れる。

 

貴方の、たった一本の指先を、

添えてあげるだけで、

力をかさなくても、

立てなかった人が、

立ち上がる奇跡を、起こすのである。