「探し出したくない」意識

信仰心のある人達は、

今も、

「神様に感謝」の心は、揺るがない。

 

心の中に、

「神様」がいない日本人は、

「神も仏もいないのか」と、

悲劇に遭うと、神様を持ち出す。

 

私の身近にも、

神様はいないけど、

「この様」を、

神様のせいには、した事はない。

 

「与えられしもの」を、

「甘受」する、法則は、

未熟な私にとっては、

のたうち回るほど、厳しい。

 

「人としての高み」は、

どこに向かえばいいのか?

どの高みを、目指しているのか?

 

言葉では、解釈できても、

自分を見つめ直せば、

ただの綺麗事で、終わってしまう。

 

悲しみも、寂しさも、苦しみも、

そして、辛さも、

人並みに味わってはきたけれど、

答えが出るまでは、

追求はしてこなかった。

 

知らない事は、知りたいし、

見えない物は、見てみたいし、

欲しい物は、手に入れたい、

と、生きてきたのに、

 

内なる、

私の中の、「神様」を、

決して、探そうとはしなかった。

歳を経て、

「探したくない意識」に、

気づき出している私がいる。