自我を、探し続けて

2歳のある日、

パンツに、お漏らしをした。

 

母に伝えたかったが、

側に、姉と兄がいた、

「お母ちゃん・・・」と、

言いたかったが、

言えなかった事を、鮮明に覚えている。

 

姉と兄から、笑われる事が嫌!

漏らした事が、恥ずかしい!

と言う意識が、頭に浮かんだ。

 

察してくれた、母は、

黙って、綺麗にしてくれた。

「この人は、私に優しい人」

と、心に刻んだ。

 

亭主関白の父と、

四人の子供達の世話に追われていた、

母を、

独り占めできない代わりに、

働いていた女中の「きみちゃん」が、

私の擬似母となった。

 

私だけを、

可愛がってくれる人の、

「温もり」を、心が忘れない。

 

ある日突然、

「きみちゃん」が、家から消えた、

「一人ぼっち」にされた、

悲しみと怒りが、心を傷つけた。

 

それから、10年後、

優しい母が、若くして亡くなった。

「一人ぼっち」にされた、

悲しみと怒りが、心に積み上がった、

 

そして、一年後、

父が再婚し、

新しい母が、私の前に現れた、

「私を愛する人」が、いない事を

心に、確信した。

 

自己は、

他者との対人関係によって、形成されるが、

自我は、

造られた自己の中に、奥深く、潜んでいる。

その姿は、

うつろであり、捉えにくい存在である。

 

幼い頃、

「皆と一緒に楽しむ喜び」を、

経験できない家族であっても、

大切な人が、いなくなっても、

 

たとえ、

たった一度だけでも、

「愛された」と言う、実感は、

生涯、私の自我の中に、存在している。