殺戮は何処にでも

明るい春には、ならなかった、

プラハの春

半世紀前に起こった、

チェコスロバキア民主化運動、

 

戦車の前に、

立ちはだかった市民達の姿は、

歴史が、甦り、

ウクライナ侵略と、重なる。

 

「侵略は、許せない!断固反対!」

と、血気盛んに言うメディアの人達、

暖かな部屋で、

温かな飲み物を飲みながら、

なんとでも、言える。

 

まさか、核は?

まさか、市民まで?

こちらからは、まさかであるが、

闘う両者は、意志貫徹である。

 

長い歴史の繰り返し、

旧約聖書の、予言通りに、

怨念と因縁の積み重ねがある。

 

「やめてほしい」

「止めてほしい」

「助けてほしい」

の、言葉の向こうに、

同じ血統の、裏切りと、

恐怖が、交錯している。

 

人々の、日常の中に、

何気ない暮らしの中に、

潜むサタン性が、無くならない限り、

殺戮は、どこにでも起こりうる。

 

スッカラカンになるまで、

欲しいものを与え続けても、

許されない事を、人類が行なって来た。

 

振り返らなければ、

思い出さなければ、

「どうして、戦争は起こるの!」

と、叫び続け、

永遠に、戦いは終わらない。

 

平和で、豊かな生活に、

なればなる程、

シーソーの様に、

争乱で、貧困な生活が、

目の前に、存在している。