「やり残した事」は、もはや無い
生きて来た過程で、
強い圧力によって、
歪んだ実感が、
身体のあちこちに、存在している。
想定外の世界になって、
どう、生き抜くかではなく、
どう、死んでゆくかに、
歳と共に、変化して来たかもしれない。
どちらも、目的であるが、
道のりも、短く、
頑張る労力も脳力も、
力を抜いて歩んでいける。
友人達は、
残された人生、
「好きな事」して、死にたいと言う。
昔から、
孫との触れ合いの楽しみもなく、
旅行、外食、趣味嗜好もなく、
好きな事が、
特にない人間にとっては、
「やり残した事」を、してから、
死にたいになる。
「やり残した事」を、
改めて考えだすと、
反省と後悔ばかりになり、
「つまらん人生」で終わってしまう。
結局、
この歳まで、大病せず、
家族も、健康で、仕事もある。
大金も豪邸もないけれど、
衣食住にも、困らずに、
教育も人並みに、学んできたし、
海外も、仕事ついでに、
世界を見てきた。
そう考えれば、
「好きな事」は、充分味わい、
「やり残した事」は、もはや無い。
むしろ、
やりすぎた人生、
動きすぎた人生、
「二流映画の主人公」の、緞帳下ろして、
これからは、
鑑賞する側に、なって行く。