歳を重ねて、
人生を振り返ると、
「若気の至り」で、
落ち込んでいる高齢者がいる。
自分を、あまり、
「加害者」にしない方がいい、
ひょっとしたら、
「被害者」だったかもしれませんと、
慰めてくれる、友人もいる。
「それもありなん」
と、変に納得、
過去を、紐解けば、
何故に、
「その行動」を、したのかには、
確かに、原因があったはず。
日本という国は、平和には見えるが、
社会の同調圧力、
家族のプロパガンダが、
蔓延っている。
「若気の至り」と思っていた事は、
実は、
都合よく、「嵌められた」とも言える。
「失敗」や「恥」と思いこんで、
「いらん、後悔」が、自虐し続けてる。
血気盛んな若い頃、
「カッー」となって、行動するか、
抗えずに、我慢したものが、
積み上がり「決行」するか、
どちらかである。
右向けば、「左!」
意見を言えば、「黄色い嘴!」
夢を訴えれば、「無視!」された。
そんな時代には、
個性は我儘、
抗えば、反抗的、
嘘は、泥棒の始まり、
知らん間に、犯罪者にされてゆく、
その烙印を押すのが、
「家族」であったり、
近しい人達であると、
本来ならば、悲劇になるが、
本人の責任として、
「若気の至り」で、
心にそっと治めてきたのである。
何かを決行する時に、
誰かが、応援してくれて、
「頑張って!」と、
温かい言葉で、見守ってもらえていたら、
「若かったからなー」と、
「笑い話」で、終わる事である。
SDGsの、良き時代になって、
今の若者達は、
自由で、生きやすくなった。
「若気の至り」など、
死語になる時代に、なってゆく。