「宗教学」と」信仰心」
かつて、
「政治」と、「宗教」は、
全く別次元であって、
結びつくものではないと、
理解していた。
政治は、「リアルな世界」であり、
宗教は、「スピリチュアルな世界」
と、言う認識が、覆されている。
日本人は、
「勤勉で誠実」と、言われていたが、
かくも、「不誠実」であった事が、
暴露されている。
泥縄の如く、
ズルズルと、引き摺り出されていく、
政治家、企業マン、芸能人の、
裏の顔(サタン性)が、
テレビに、映し出されてゆく。
次々と、
あからさまに、なってゆく、
為体と、無責任さ、
そんな「一部の人達」が、
氷山の一角に、見えてしまう。
日本の宗教と言えば、
歴史的にも、文化的にも、
一般的である。
それ以外は、
「新興宗教」と呼ばれ、
未だ、胡散臭いイメージがある。
認められるには、
何千年の、時間を要するのである。
「教え」事態に問題はなくても、
入信すれば、
「献金」や「物販」など、
お金が絡む話が、問題となる。
友人達の中には、信者もいるし、
一度は、
お話聞きに行ったと言う人達も
多くいる。
唯一、
今、問題の「宗教法人」だけは、
莫大な金額が、動いていることも、
知る人ぞ知る現実で、
蜘蛛の糸のように、広がって行った。
宗教とは、
人間としての、
哲学、倫理観などを学び、
自分自身の内的なものを、
向上する為に、
一人静かに、
向き合うものと、思って来た。
ただ、私の場合は、
福祉や医療に、関与する仕事であり、
その原点である
「キリスト教」だけは、必然であった。
聖書から始まり、御言葉を解読し、
歴史的、資料に、関する参考本は、
頭で、学んで行った。
「宗教学」は、学んだが、
そこには、
「信仰心」は、生まれてはいない。
本当の意味の、
「与える人」
「命を救う人」に、
応召義務が、備わっていたかは、
教える側に立って、
「疑問」が、今も、心に残っている。