大正生まれの、
二人の母は、女医であった。
まだ、
女医という職業婦人は、
数も少なく、
珍しい時代であった。
医師である前に、母であり、
医師である前に、姑であり、
娘として、嫁としては、
非常に、
「厄介な女性達」だったかも知れない。
二人の、主人達は、
元陸軍、元海軍の、強者であったが、
流石に、
科学者である女性達に対しては、
一目置いていた様に思う。
当時、
「大和撫子」の様に、
清楚な女性が好まれ、
女性差別、女性蔑視の、世の中、
そんな時代に、
アカデミックな教育を受け、
ドイツ語で、カルテを書き、
自分の意見は、
毅然と物申す姿を、思い出す。
姑は、外科医であったが、
四人のヤンチャ盛りの子供達は、
ケガをしても、
水で洗い流して、チョンである。
私の母は、内科医であったが、
何故か、
身内は、診ない人であった。
社会においては、
「自立した女性」として、
認められてはいたが、
残念な事に、
主人や、子供達からは、
「守ってやりたい」妻ではなく、
「心配な」お母さんでは、無かった。
歳を重ねて、
介護が必要になっても、
委ねる事には、抵抗があり、
「甘えられない」淋しさが、
見え隠れしていた。
そして、
私の中には、
「甘えてもらえない」悲しみが、
残っている。