どんな姿になっても「これが、私」

家族に、

認知症の人」がいると、

毎日が、

非日常の日々である。

 

当事者にすれば、

楽しい我が家であっても、

世話をする人にとっては、

「かなわん」らしく、

 

私の周辺も、歳なりに、

「危なっかしい人達」が、増えてきた。

いずれ我が身と、思いながらも、

変わりゆく姿に、

切ない気持ちが、湧く。

 

友人の中には、

「ミセス、ミスター、パーフェクト」

と、言われるほど、

社会的にも、人格的にも、

完璧に近い人達さえ、

年を重ねるごとの、リスクはある。

 

近しい家族は、

昔のままの本人として、

見てしまうので、

思うように、ならないと、

たまに、「爆発する」と言う。

 

「暖簾に腕押し」

の如く、手応えもなく、拍子抜けで、

本気で、対応すると、

こちらが、疲れてしまう、

 

いくら、

病気と、頭で思っていても、

別人の様になってる事を、

忘れるのである。

 

何十年と、

肉体や脳を使い続ければ、

「生身の人間」

タイルも剥げるし、錆び付いても行く。

 

認知症を治せる、

「治療薬」が、発明されたら、

ノーベル賞ものであり、

歴史的な発見となるが、

今のところ、

対処療法しかないのである。

 

自分自身も、

うーんと、長生きすれば、

認知症は、「必然」

そうなる前に、

そこそこで「さようなら」

 

どちらを取るかと言われたら、

悩みどころではあるが、

やっぱり、

どんな姿になっても、

「これが、私」と、思いたい。

 

誰かの中に、

私との、

「良き思い出」さえ、残っていれば、

認知症になっても、

優しい手で、抱き締めてくれると、

どこかで、信じている。