「生死の境界線」で自己決定

治療法は、

「手術です」と、

ドクターから言われたら、

「即答」できるかは、疑問である。

 

ドクターとは、

長い付き合いで、

「信頼」はあるが、

「お任せします」とは

すぐには、言えない。

 

悪い物を、

取ったり、切ったりは、

「致し方なし」

と、観念する気持ちも有る。

 

しかし、

生まれてから、

ここまで使ってきた自分の、

骨を、切り取り、

「人工物」に、交換するには、

ちと、抵抗はある。

 

70数年以上の、

パーフェクトな、メカニズムが、

「異物」が入ることにより、

誤作動をおこさないとも限らない。

 

痛みに耐えかね、

縋る思いで、診察室に入り、

ダメージを、受けた、

哀れな、

「我が姿のレントゲン」

 

誰でも、

医学を知らない高齢者は、

疑いもなく、

「腹を極める」のである、

 

言われるがままに、

手術日は、決まり、

「チャチャッ」と、すまし、

次に会ったときには、

「晴れ晴れして」

元気な姿も、あるが、

 

「やめといたらよかった」

「手術前の方が、ましやった」

結果は様々で、

果ては、

ドクターの腕に「責任転換」

 

目覚ましい医学の進歩で、

手術も、

ロボットとドクターが、

コラボする時代である。

 

「高齢者の寿命」が伸びた分、

病気の数は、数知れず、

老いて、古びた身体の一部を、

修理する様に、変えて行く、

 

髪は白く、薄くなり、

顔には、シミやシワができ、

手足は、硬く、動かない、

老化のスピードは、

すこぶる速い。

 

新しい部品に、変えても、

追いつかず、

「残存能力」で、頑張るつもりが、

残っていない。

 

と、言うわけで、

自然には逆らえず、

「生死の境界線」で、自己決定である。