「誰かの優しい手」が、必要となる日

「大丈夫、心配しないで!」

人の優しい言葉が、

嬉しくて、

当てにはしないが、

安心している私がいた。

 

「この歳」になると、

風の便りで、聞こえて来るのは、

友人や、知り合いの、

「不幸」や「病気」

 

自分の目の前に、

置かれた現実は、避けようもないと、

常に覚悟はしているが、

「死」や「大病」や「認知症」は、

経験もなく、想像外である。

 

ふと、周りを見渡せば、

何十年の付き合いだが、

「同年代」で、

50歩100歩である。

 

若者達は、

「こんな時代」になって、

我が身と、家族を守るのが、

精一杯の現状である、

 

若かった頃の、

「夢」や「希望」も、

終わった領収証と、共に、

整理されて、

引き出しの中に、しまわれている。

 

後は、何年、

「この世に存在するか」は、未定であり、

物やお金は、

「生存」できる範囲で、

結構と、思っているが、

 

さて、困ったのは、

「我が身」の面倒を、

看れなくなるほど、長生きした時。

 

「病院、施設」に、

合う条件があれば、ギリギリセーフ、

「フレール」状態のまま、

見捨てられた「独居老人」は、

現実的には、厳しい暮らしとなる。

 

「医療」も「介護」も、

する側ではあったが、

される側にはなってはいない。

 

「知識や技術」があっても、

最後には、

「誰かの優しい手」が、

必要となる日が、来るのである。