遺した形見が「スマホ」だけ

人は、

亡くなった後に、

「何を遺したのか」が、見えてくる。

 

有名人でなくても、

一般人でも、

「意外な話」を、聞く事がある。

 

あの人なら、

「そうだったかも」と、想像はつくが、

謙虚な人は、

自ら、ひけらかすことはない、

 

「想う事」から、始まる、

その人達の夢や、貢献は、

「実行」に、移されて、

ピラミッドは、積み上がってゆく。

 

下支えとなる、

「お金」の提供、

目的に向けた、

「グランドデザイン」

賛同して、集まる

「人間の力」

 

「医師」でありながら、

「命を守るのは、治療だけではない」と、

シャベルカーに、乗って、

「命の水の用水路」を、造られた人。

 

「音楽家」でありながら、

地球の自然を、残す為に、

「壊れた大地の復興」に、

寄与された人、

 

「死んでも、名を残す人達」は、

名誉でもなく、

地位でもなく、

お金でもなく、

平和を願い、人の幸せを望む。

 

日常の暮らしの中でも、

当たり前の様に、

成すべき事が、意識下にあり、

 

薬より、大切なものが、

音楽より、癒されるものが、

「あるべきもの」と、

信じている。

 

ボーっと、

生きて来た私には、

何一つ、遺すものなどない。

 

あるとすれば、

「想い出」の、画像、

「日記代わり」の、ブログ、

「秘密」の、メール、

遺した形見が、

スマホ」だけも、情けない話である。