自立した人が犠牲になる。

キリスト教の教えの中では、犠牲という言葉は崇高な行為であると認識している。
しかし、無償の愛の意味を知らない日本人は、ほとんど、「あの人のためにそこまで犠牲にはなりたくないわ!」と捨て台詞に使われる。
話を聞き、気の毒に思い、相談に乗り、力を貸して世話をする。
その結果、巻き込まれ、いつの間にか、恨まれ、本人からは感謝の言葉もお礼もないことなど山ほどある。
また、当の本人も、仕事を調整したり、人を紹介したり、人との間を取り持ったりして、自分のために動いている相手を見てると、自分を助けるために犠牲になっているのではないかと、
プレッシャーを感じだし、本人が引き気味になって行く。
依存性のある人は人の犠牲にはなれない。
むしろ、大雨の日に貴方のために、傘もささずずぶ濡れになって会いに来たのと、ドアの前で立ってるような演技をする。
「傘位さして来てください!」となる。
大抵、自立して他者に対して助けれる余裕のある人が、動いてしまうのである。
しかし、その自立した人も、犠牲が強すぎて、相手を加害者にしてしまう恐れがある。
私は、後者の部類に入るので、決して驕るなかれと、常に、言い聞かせてはいる。
返ってくるものなど望まず、塵、あくたの中を分け入れる奉仕精神が無い限り、犠牲になるとは、決して言えないのです。