たった一度のさようなら

とても、美しい女性でありました。
ほとんど、寝たきり状態ではありましたが、
ベットから離れる時が、彼女にとっての唯一の外出。
「今日はどれにする?」
差し出した数枚のハンカチーフの中から、
その日、気に入った一枚を細い華奢な指で、
選びだし、首に巻いてと私に合図する。
「ピンクですか?春だものね」
結び目をくるっと回して、小粋に巻くと、嬉しそうに微笑む。
繰り返される変わらぬ日々の中で、彼女に残された感性が花びらのように浮かぶ瞬間である。
100年も生きて、過去すらも思い出せないほどの長い時間を生きても、壊れない美しい笑顔の持ち主であった。
少し意地悪なスタッフも、その気高さと凜とした美しさには、手も出ない。
意識もなく、寝たきり状態の重度の方達の部屋には、家族の来訪者は、ほとんど来ない。
家族から見放され、忘れられた存在ではあるが
時間が止まった部屋の窓に、移り変わる季節は
等しく映し出されてゆく。
「寝たきりになるくらいなら、死んだほうがましだわ!」と言う、他人の悲しいたわごとも聞こえてこない、静謐な優しい世界。
彼女が旅立つ日に、私は決められたがごとく、
一番最初の看取りの現場に遭遇したのです。
秒読みの一瞬までも、マニュアル通りの処置をし続けながら、心は戸惑い、彼女にかける言葉を探していた。
惜しむような深い呼吸と同時に、私は彼女の耳元で、「さようなら」と、最後の言葉を伝えることが出来たのです。