日本人の基準

流れるニュースに、余り反応はしない私でも、
でたらめな政治家や公務員の、国民を侮った態度に、「ええかげんにせいよ!」と、怒鳴りたくなる。
叫べと変わることはないけれど、柿の種を食べながら、「ほんまにもう!」と、腹立てて、吉本のチャンネルに変えて、ガハハと笑って終わりにはしないでほしい。
政治家の恥は国民の恥であり、目の前の醜悪は、ありうる自分ごとである。
でも、日本人はデモはしない。
一部の人だけが座り込み、テレビに映るその姿に、人ごとである。
日本人の基準は、家族の基準で物事が、図られることが多い。
私はとか、うちの家族はとかが、枕詞につく。
海外、特にヨーロッパの国に行くと、
「我々は」とか、「人類は」とか、「人間は」
とかの考え方で、会話することが多い。
「I」ではなく、「WE」である。
だから、各家々によって、根本的な基準が同じなので、外出しても、暮らし方も相違がない。
そういう意味では、ストレスが少ない。
例えば、特にマナーに関しては、徹底していて、ホテルやレストランの中で、子供の叫び声は聞かないし、大人の場所には子供のためにも、決して連れて行くことはない。
どんなにお金があるセレブであっても、マフィアの親分でも、マナーが堅く守られ、日本の様にお金さえ出せば何でもありにはならないのである。
国の為、民族の為、人間の為も、一つ間違えれば、戦争になる危険性も潜んではいるが、せめて、暮らしの中、地域の中位は、先進国としての誇りを持って、存在したいと思う。
ゴミの分別を、きっちりと守っているだけが、先進国の証ではない様に思う。
現在の日本を率いる人たちに、この国を任せて良いのかと、疑問を抱くほど、国と国民に一体感はない。
手づかみでものをほうばり、欲望のために、戦争をしてきた愚かで野蛮な人間のために、
神様は、マナーを作られたとしたら、
私たちの行動は、隣の人の目を気にするのではなく、神の目を気にしなければならない。