子供達の未来のために

走れば3分のところに、幼稚園も小学校もあったので、親は心配しなかった。
しかし、子供側からすれば、親が知らない危険は、そんな距離の中にも潜んでいた。
まだ、道がアスファルトでもなかったので、
(かなり古い時代である)石ころや砂利道で、毎朝、みすぼらしい格好をしたおじいさんが、
落ちている石を、ポケットに拾って集めていた。
同じ時間、同じ場所で、物を言わず、笑いもしない。
近寄ると、怖い顔して睨みつけられた。
子供ながらに、趣旨目的の見えないことに対しては、何となく不気味であったし、おじいさんの前を通る時は全速力で走った。
親に伝えても、きちんとした説明もなく、月日は過ぎて忘れてはいたが、先日の様な子供の悲惨な事件が起こると、ふと脳裏に浮かぶ。
また、見知らぬ人間も怖かったが、今では想像もできないが、当時は、犬が放し飼いで飼われていたのである。
可愛い犬、怖い犬が、必ず、あっちの電信柱の陰に、こっちの曲がり角にいたので、怖い犬の前は、息を潜めて、目を合わさず、そおーっと通り抜けた。
近代社会の中では、子供達を守るために、制度を変えたり、携帯をもたせたり、地域で見守りをしたりと、大人達が関わっているが、私たちの子供時代は、自分の身は自分で守らなければならなかったのである。
「時代が違うやん!昔は良かったから」
と、多くの人は言うけれど、そう言う危険な可能性のある話を、何故か親も先生もはっきりと口には出さず、放置されていたかもしれない。
今も昔も、変わらず危険な場所、危険な人間はいる。
あとで親が聞いたらびっくりするような秘密があったり、一つ間違えば犯罪に結びつくような話は、山ほどあったと思う。
昔の子供は、親や先生に、伝えるべきことの分別と自立心が、厳しい現実の中で、培われていたのかもしれない。
今から思えば、その石拾いのおじいさんの事は、理解できるし、親も口を濁した理由も分からなくもない。
太陽が輝き、木々と花々が咲き誇る街の中にも、一つ間違えば、命を落とすきっかけはある。
危機感の薄れた平和な日本も、外国と同じような危険は隣り合わせである。
子供達を守るために、今一度、大人達や、国が何を教えるべきかを、考えねばならないと思う。