誰とも喋りたくない時間。

数ヶ月に一回、誰とも喋りたくない時がある。
携帯が鳴っても知らん顔。
何がきっかけになったのか、一度考えてみた。
一生懸命に、動く中で、1人の人の、なにげない言葉に、心がスローダウンしていく。
90歳を越えて、人様のお世話になり、
外出も、歩行すらおぼつかなくなったので、
車椅子を購入し、いざ出かける前に、
「サングラスと帽子で、変装したいの。
恥ずかしいから、誰にも分からないように。」と、ある人に言われた。
私のリズムが、切れる音が、耳元で聴こえた。
倒れてから数ヶ月、やっと外出できるまで、
どれほど、周りに世話になって来たことか!
みんなに感謝の言葉は、綺麗事であったのか?
「お陰様で」の、枕詞はなんだったのか?
若い時から、医療に長く携わり、後遺症で障害者になった人達を、診て来た人間が、吐く言葉ではないと感じてしまった。
最近、テレビでもニュースで流れている、
いわゆる、不適切な原語である。
この事が、直接的な原因ではなく、私が崩れるきっかけとなっただけである。
その夜は、気力も、労力も、食欲も、転げ落ち、ベッドに横たわる私の身体の上から、虚無感が、襲いかかって来たのです。
中断。
気がつけば、意識をなくしたように、眠ってしまっていた。
その間に、もう1人の私が現れて、意識を取り戻し、見えて来たのである。
常に、私には私の見解があり、人には人の見解があると言い聞かせて来たが、どこかに我慢を積み上げて、満杯状態になる時に、
誰とも、喋りたくない!と、思ってしまう傾向が出る。
いつも、やるせない。
我慢などせず、文句を小出しにしながら、進む事ができない私は、「ボキッ」と、音を立てて、心が折れて、心を閉ざす。
それぞれの思考や魂を、寛容な精神で受け止められない小さな私にも、一つだけ長所がある。
ブレーキの効かない運転で、避けることをせず、壁にぶつかり、ぺったんこになるけれど、
漫画に出てくるアンドロイドのように、形状記憶で、見事に元通りに復活する。
悩んだ時は、ゼロ地点に立つと言う、マニュアルは、いまだ健在かもしれない。