こころの終活

生まれ出ずる国も、家族も選べないまま、
突然、この世に、生を受けた。
私が、親に頼んだわけではないし、
この両親の間にしか、私は、生まれることができなかったのは、事実である。
この地球上で、たった二人が、わたしを創作できたのは、奇跡以外にはない。
子供四人を置いて、母が40歳で、亡くなり、
その後、成人するまで、どうやって生きぬいたのか、この事も、奇跡以外にはない。
社会に出た時も、結婚してからも、
出来事の連続の暮らしの中で、
私の身体を守り、私の心を支えて来れたのは、
奇跡であると、70年生きて、実感している。
善き人とも、悪しき人とも、数多く出会い、
複雑な人間関係を乗り越え、
喜び、悲しみ、苦しみ、寂しさと、共に来た、
私の人生も、ほぼ、最終章に突入。
身内であっても、ややこしく、めんどくさい
事も、卒業。
私も、あったはずの、能力体力メキメキ低下したことを認識、同時に、社会からもお呼びでない状態が、やっとこさ訪れたような気がする。
さあ、自由を思う存分、謳歌して、お金も夢も、ささやかではあるが、静謐な部屋の中で、誰にも邪魔もされず、誰のせいにもされず、自己責任において、残された時間を、一人暮らしの中で、味わっていたはず。
が、最近、私と同じように、一人暮らしを、
それなりに続けて来た高齢者が、病気になったり、老いにより体が不自由になって、地獄の苦しみを味わっている事を知り、人生の最後、
どんな選択をしなければならないかを、
今、再び、自分に問いかけている。
人の世話にならなければならなくなった時に、
家族がいても、独居でも、お金があっても、貧しくても、形は違うが、結局は、同じ苦しみが
あるような気がする。
まだ、少し、時間がある間に、早急に、答えを出したいとは思っている。
終活とは、相続の事、お葬式の事、お墓の事など、現実的なことだけではなく、
自分の精神の在り方を定めなければならない事も、大切かなと感じ始めてはいる。