意思を持つ我慢

暴力も指導、パワハラも指導と、旧人類は、
平気でのたまう。
会議もスマホ、デートもスマホ、お願い事もスマホ、ネットワーク人類は、何が悪いと開き直る。
どうあれ、ここへ来て、これだけの隔たりを、埋める物が、見つからない。
もはや乗ってるレールが違うので、決して出会うことはない。
テニスプレーヤーの、大阪なおみさんが、
世界のセレーナに勝ち、見事優勝。
その涙の、インタビューで、
「我慢しました」と、答えた。
耳を疑うような言葉に、彼女の晴れやかな顔が、重なった。
今の日本人には、死語になってしまった、
「我慢」という、一見マイナス思考の行為が、見事に、自らの意思を持って、ポジティテブに
開花して、返り咲いた。
彼女の我慢は、次に来る喜びのための、
「我慢」である。
私達の年代は、親から、先生から、上司から、不条理なことを言われても、我慢、我慢、我慢の時代の中で、いつの日か、我慢と努力は実ると、願いながらの長い時間を過ごして来た。
若者たちが、堂々と、マイクの前で、声高らかに、まっすぐな意見を言える姿に、感動する。
しかし、未だに、化け物のような権力者や支配者が、やんわりと、若者を捻り潰して行く。
パンドラーの箱の中にしまった「我慢」を
私は、70年の時を超えて、扉を開け始めている。
人を押し殺す様な「我慢」は、もはや無用の長物である。
棺桶の中にまで、持ち込んで、あの世まで、
持って行こうとしていたことが、誰のためにもならないと分かった日から、一つずつ、丁寧に取り出し、魂の解放を始めだしたのである。