認知症の狭間の中で。

「皆んなに、迷惑をかけるので、なるべく一人で、家のことはやるようにしていますの」
と、ドクターに、まことしやかに話す高齢者の姿に、びっくり。
「トイレの方も、自分で、ちゃんと始末できてるし、別に困ってませんわ」
便汚れのついたベットの上で、何事もなかったように話す高齢者の姿に、あきれる。
受け止める方は、一瞬の彼らの姿に、
すっかり騙される。
「お元気になられてよかったですね」
と、安心する。
こう言う高齢者たちの、会話の中に、
周りへの気遣いの言葉や、「おかげさまで」があれば、まだ、大丈夫かなと判断する。
まずは老化から始まり、それに伴う慢性疾患、
脳血管障害、癌による手術などで入院が原因で
人によって違うが、高齢者の機能低下は、
階段式に落ちて行く。
今の状態をどこまで維持できるかは、本人の努力ではなく、周り、つまりは家族や介護、看護、医療のおかげで、食い止めているのである。
食べて、出して、清潔に、
つまりは、食事、排泄、入浴の介助さえしておけば、命は取り止めるが、そこに尊厳はない。
医療に精通し、技術に裏打ちされたプロフェッショナルな人材が、一人の高齢者の暮らしを、守り、人生のサポートについているのである。
「おはようございます!」と言いながら、
普段と変わらぬ顔色や爪の色を見る。
ベットの周辺や、家の中の様子を、掃除をしながら、異変を感じとる。
トイレやおむつに残された、便や尿の色や量から、体調を汲み取る作業まで、
さりげない在宅の生活を保ちながら、
本人の命と暮らしを支援しているのである。
見事なチームケアがなされる中でも、
本人の意思とは関係なく、老化と機能低下は
進んでいく事を、私は知っている。
もはや、決して、一人では成り立たない日常生活を、家族や専門機関の導入があって継続している体制の中で、その意図も理解できず、現実との狭間の中で、見え隠れして行くまだらの認知症の世界が、始まって行く。
ここからが、本当の介護であり、本人が、階段を一段落ちたぶん、介護者側は、一段高い上質な支援をしていかねばならない。
お互いが、近くて遠い存在となり、全く違う世界の中で、思考も食い違い、周辺に問題が、次々に勃発して行く。
される側、する側の関係論のなかで、決して忘れてはならないことは、人類愛しかないと、
私は思っています。