雑談の中で、
「生きてるのが、嫌になるほどの苦しみを、味わう事になるでしょう」
と、ある人が、静かに呟いた。
思わぬ答えに、私は、顔を上げた。
この言葉は、私の心に、引っかかってはいたが、その時は、深くは取り上げはしなかった。
しかし、その後、その言葉の裏に、
絶望の血と涙が、流れていた事実を知る事になった。
この言葉の意味を知った時、私は立ち上がれないほどの、衝撃を受けたのである。
人が、簡単に言う、
「悲しい、淋しい、苦しい。」
とは、異質のメッセージであった。
この世に生を受け、与えられた環境に感謝して、人間として、当たり前に過ごしてきた人に、
ある日突然、非日常が襲うときがある。
関わりたくない事件や事故に遭遇し、
加害者にもなりうる可能性があるが、一瞬で、周りの景色は変貌する。
地球の中で、たった一人孤立する。
理解してくれていた家族も、友人達も、
「知らない」「分からない」を、唱えながら、消えてゆく。
平和な時だけ、良き時だけの関わりと絆は、
氷の様に溶けてゆく。
その波動は、一つの不快な雑音と変わり、
大きな叫び声になって、聞こえてくるのである。
イエスが、磔になって聞こえて来た、
「イエスを殺せ!イエスを殺せ!」
の声の様に。
地の底から、怒涛の様に、襲って来る叫び声を、イエスは、天を仰ぎ、血の涙を流したのか?
あれほどの民衆の支持を受け、神の使いとまで、崇められたイエスを、支配と権力の僕達は、
自分の保身のためなら、大切なものまでを売りとばし、手の平を返すのである。
昨日まで、食卓を囲み、談笑し、絆を確かめ合った人々が、変貌する。
何故、この世に生まれて来たのか?
何故、残酷な仕打ちをうけねばならないのか?
自ら、選んではいない、茨の道を、味わわなければならなかったのか?
全ての人が、人間の罪を背負うわけではない。
選ばれた人が、責任を果たすためにたどる、心模様の中で、
「生きてるのが嫌になるほどの苦しみ」
を、体験する。
自分の中にも潜む裏切り、虚偽、無視、悪意を
見つめ、昇華して行く絶望の世界。
被害者の傷は言うまでもなく、辛い。
しかし、いみじくも、望んではいなかった加害者の立場に立たされた時、時間を戻すことも、未来に逃げ場所もない闇の中でこそ、
出会うはずのない、イエスの姿が、見えるのかもしれません。