人生最後の体験。

人の最後の経験は、自分の死である。
50代を過ぎた頃から、死は身近になり、
死を知りたくて、関する本を読んだり、人の話を聞いたり、果ては宗教にまで手を出したことがある。
死という言葉自体、日本人の多くは忌み嫌う傾向があり、あまりあからさまに言葉にしない。
かと言っても、還暦を過ぎた頃からは、早い人でも亡くなられ、お葬式には遭遇する。
もちろん他人事の儀式のように、世の常で出席はするが、心はご遠慮したいのである。
黒装束の奥方達が、お葬式の帰りに喫茶店などで、抹香臭い匂いを醸しながら、ついさっきまでの悲しみを忘れて、談笑しながら、
「まだ若いのに、気の毒」
と言いつつ、私にはまだ先の話で済ましてしまう。
しかし、近しい身内が、不治の病で告知を受けて、静かに確実に死が訪れて行く過程を経験すると、 さすがに目を背けるわけには行かず、向き合わねばならない。
ベットをギャッジアップして、テレビを見たり、新聞を読んだり出来ていた人が、時間とともに、座ることもできず、手も足も動かず、ベットに磔になったように横たわる姿は、絶望と苦しみの世界である。
意識がなくなった方がましなのではないのか、
壊れた内臓に、次々に流される点滴を分解も消化もできずに、身体中浮腫って行く姿は壮絶に苦しい。
耐えて、耐えて、混乱した頭で自分が死んで行く路程を、嫌がおうにも味わわなければならない。
目は一点を見つめ、迷いの中にいる人の、
細く木の枝のようになった手を握り、何も言えない自分に出会う。
「今までありがとう。」なのか、
「色々ごめんなさい。」なのか、
それとも、「出会えてよかった」なのかを、
自分の心に問われるのである。
死に行く人も、看取る人も最後の一瞬までも
嘘のない言葉を探すのである。
後悔と自虐の交錯する中で、死にゆく人が、
答えを出すのである。
たった一度だけ、最後の力と優しさで、繋いだ手を、しっかりと握り返してくれるのである。
「許し合おう、さようなら」と。
いつの日か、私にも必ずくる死の体験。
こんなふうに見事に死んでいきたい。