有資格者の質を問う

「貴女は言葉に敏感だからね」
「神経が繊細だからね」
傷ついた原因は、こちら側にあるのか?
言葉に敏感、神経繊細、何が悪い!
傷ついた本人を前にして、遠慮げに言いつつ、
貴女の身体が特殊と言ってることに気がつかない。
同じ日本語を使い、皆神経の太さは同じ。
相談に来た人は、こんな事言われたけど納得出来ず、思い切って相談したらこんな答えは悲しい。
問題はそこにあらず、理不尽なことに対して、
訳を聞かせてと言ってるだけである。
相談に来たのに、二度傷ついてしまう。
「私が、やっぱり、メンタル弱いのかも」
何の解決にもならずである。
説得されただけで、納得せず、引き下がる。
相手の性格、本人の性格ではなく、
「人としてどうか」を問わなければならない。
「大丈夫!貴女は間違ってはいませんよ!」
と、帰えさせねばならない役目を、私は担ってきた。
自分自身が社会や世間に疑問を持ち、揺れ動く中で、私の考えでは救えないことを知っている。
感情論では、その場限りの同情で終わるし、
何時間傾聴してもきりがなく、解決にはならない。
本人と同じ苦しみや悲しみを共有し、そこからどう出口を見つけて、導けるかである。
「相談業務」と言う福祉の窓口はあるが、
カウンターの前で、本の棒読みのような悩み相談では、死ぬほどの思いで辿り着いた人を、
支援できないのである。
問題の本質を見極め、課題を抽出し、本人の領域を守る為に、幸せのありかまで送り届けることが、相談者の使命である。
それができない未熟な有資格者が、知ったかぶりの知識だけで、傷ついた人を触らないでと、
願っている。
潔く、上のステージの専門家に繋げるべきである。
命に関わる案件を、聴ける資格を持っていると言うだけで、任せてしまっていいのかは疑問である。
社会保障が行き届いた日本を目指して、政治家も綺麗事では済んではいない現実を知るべきである。
本当の困窮者を救う制度は、形だけではなく、救う人間の育成も進めて行かねばならないと思っている。