春を待つ

死に方は生き方とよく言われる。
自分では死に方は選べないが、死が想定内に入れば、準備もできれば整理もできる。
私のように、事が起こるまで何もしない人間にとっては、ありがたいアドバイスである。
昔から、死に関連する言葉は忌み嫌われていたが、最近はテレビや雑誌などでも、クリエイティブに扱われて当たり前のように話題に上る。
最近では名だたる女優さんや有名人の悲報があいついで報道されている。
こういう人達は、すでに生き方が確立されているので、惜しまれて、自他共に納得された死に方に見える。
数日前にも、私の大好きだった兼高かおるさんが亡くなられたことをニュースで見た時、
「あー、こんな人でも、やっぱり亡くなるのだなー」
生きておられる時から、私の中では、憧れの女性として存在していたので、悲報を聞いた時も、肉体は無くなったが、教養豊かでエレガントな兼高かおるさんは私の中で生き続ける。
身内でもなく、友人でもなかったが、私の夢であり希望の存在であった。
と、言うように、人間はどんな人というより、
どう生きたかに尽きるように思える。
自分の過去を振り返ったり、知らない未来を考える事は、もはや「しんどい!」のである。
高齢者の人たちが、私の顔を見れば、
「早う、お迎えが来んかな?生きてるのもしんどいわー」
と、よく言っていた。
「誰ーれも来ませんよ。そのうち、私が送って行くから、ちょっと待っててね」
と、笑って答えていた。
夜に痛んだ足も、朝には嘘のように動けるようになって、
「さあ、出掛けよう!」
芦屋川の桜の蕾🌸が見つかるかも知れない。
美しい、小さな風景が、私の心を後押ししてくれる日々である。