亡くなられた大切な人との思い出の場所には行かない、いえ、行けないのである。
若い頃から、三宮は、我が家の庭のように、飲んだり、食べたり、買い物したりと楽しい思い出が沢山ある。
その中でも、中華の家庭料理なら、この店しかないと言われていた「天竺園」
夜中まで開いていて、遠い出張先の帰りにも飛び込み、美味しい水餃子やラーメンなどを食べさせて頂いた。
中国人の家族ではあるが、中国は知らないと言うほど日本人的である。
厨房に立つ、大きなお父さんが、
「いらっしゃいませ」
静かに、穏やかに迎えてくれる。
神戸の中華は色々行ったが、これほど食べやすく、口にあったお店は初めてで、足繁く通い、ご家族とも親しくなった頃、店主であるお父さんの目が不自由である事を知った。
「昔はよく外食したが、目が悪くなり、夜は一人では歩けないよ」
と悩んでおられたので、
「お父さん!私が杖代わりになるから、食べに行きましょう!」
と、私も足が不自由なのに、約束してしまったのである。
それ以来、私はお父さんの腕に支えられながら、お父さんは、私の眼に支えられて、二人の二人三脚グルメ行脚が、数年間続いたのである。
三ノ宮では有名な人であったので、どこに行っても歓待され、特別メニューがでてきたのである。
そして、ある時、
「僕はお腹いっぱいだから、貴女が全部食べなさい」
と言い出したのである。
私のその時の心配は的中し、その後、大病が発覚し、あっという間に亡くなられたのである。
日本で生まれて苦労され、一代で築き上げられた店を守り抜き、思慮深く聡明な方であったので、私は癒され、学ぶ事が多かったのである。
お母さんがお料理を、娘さんがフロアーを、お父さんがお皿洗いを担当。
お客さんのピークを過ぎた頃に迎えに行き、三日に一度は、ご一緒していたので、私の喪失感とショックは、相当なものであった。
それからは、天竺園には勿論のこと、ご一緒した店には思い出し、食事が取れなくなり、行く事ができなくなったのである。
月日もたち、三ノ宮には行けるが、思い出のお店の前を通ると、切なくなり、未だ哀しい。
13年生まれの寅年、戦中に日本で生まれ、厳しい差別も受けられたにもかかわらず、日本人に美味しいものを食べさせてあげたいと、生き続けてきた人の魂のなかに、中国の高貴な王族の血が脈々と流れ、文化と民族を愛した人であった。
私こそが、先祖は中国人?と思えるほど、親切にして頂き、大地のような大らかさに出会えた事を、忘れはしない。
この広い地球の中で、国を越えて出逢た人達が
数多くいる。
国々が、混迷した時代の中で、民族が違えど、個人の信頼を作り上げる事が大切である。
お父さん亡き後、今も、お店に明るい電気がついているのを見るたびに、私は、ホッとするのである。