悲しみは皆同じ

昔から、人の自慢話に、羨ましいと思わない性格だった様に思う。
容姿端麗、頭脳明晰、地位名誉、氏素性、高額所得者(セレブ)、海外生活、芸能人など、
人が羨む様な事に出会ったり、聞いたりしても、感嘆はするが、羨んだり、嫉妬することがない。
「自慢」その者が、歩いている様な人もいる。
「お綺麗ですね?」
「いえいえ、何にもしてませんのよ」
「ご主人様、お医者様でしょう?」
「いえいえ、大したことございません」
と、言いつつも、どう見ても、大した格好にしか見えないのである。
それぞれのステータスがあり、若い頃からの目的を達成した人達は、幸せを実感しているのである。
住まいの玄関が見えないくらいの塀に囲まれた家がある。
覗きようがないが、まるで旅館かホテルの様な佇まいの家を見ると、
「どんな人が住んでるのかしら?」
また、お玄関に、ライオンの石の置物があったり、五重塔がある様な家を見かけると、
「どんな暮らしをされているのかしら?」
自分の頭の回路に全くないものを見たときは、
興味は湧くのである。
私の住む街は、古く、小さい街なので、人伝に噂話は回り回って耳に入ってくる。
横溝正史並みのドラマの様な魑魅魍魎の話である。
もちろん、誰が聞いても知ってる様な大企業の経営者や、スポーツ選手、小説家などの著名人の、プライペートの裏話である。
小さい話に尾ひれがついて、膨れ上がり、伝説の様に広がって行く。
聞いた人の心の何処かにある恨みや嫉妬が、そんな噂話にひっつき虫の様に増殖する。
人から、羨ましがられるほどの人生になれば、
同じ生涯、達成感もある。
巷の苦しみも辛さも、少ないかも知れない。
経済的な不安もなく、役立つ人脈があれば、
助からない病魔からも、逃れられることができるかも知れない。
ストレスが貯まれば、心を癒せる海外旅行に行けば済む。
人間の想像と思い込みは、虚像を生んでゆく。
どんな立場、どんな環境の中にいても、
誰にでも来る生老病死、喜怒哀楽は避けられない現実である。
自慢できるものが、人より少しあったところで、悲劇に見舞われた時には、そんなものは何の足しにもならない。
だから、私は羨ましいとは思わないのである。
悲しみに違いはないのである。
神様は、誰にも差別はしないのである。