父は、死の瞬間まで、丈夫な人であった。
大正6年生まれ、96歳で永眠。
元軍人で、自ら志願したくらいなので、かなりの出世はしたらしく、綺麗な箱の中に数々の勲章が並んでいた。
戦争に行って、初めて鉄砲の弾が、胸を貫通したが、一命を取り留め、その後後遺症はない。
終戦後、焼け野原から会社を立ち上げ、死に物狂いで働いたと聞く。
数十年後、貸しビル業のオーナーとなり、一代をなす。
90歳を越えるまで、家族は父が寝込んだ姿を見たことがない。
「もう間も無く、お迎えが来るからなー」
と、父が呟いても、誰も聞いてもせず。
「死ぬわけないやん!」
と言うくらい、父と死は直結しなかったのである。
家系の中では、長子に生まれ、暴君のような存在であったので、子供達はなるべく近寄らず、
ましてや反論などもってのほかであった。
他の兄弟、姉妹はどう思っていたか知らないが、私は怖いと言うより嫌いだったので、避けて通っていたような気がする。
そんな私を見抜いていたのか、いつも、怒りの矛先は私であった。
何を申し立てても反対されるので、どうすればこの家を脱出できるかを、子供達は考えていたようである。
姉は結婚という形で、兄は世界一周旅行で、私と妹は逃げ出すしか、方法はなし。
父は存在していたが、優しい父親はいないに等しく、父不在の家で育ったといってもおかしくはない。
ただ、学費、食費などは、出してもらっていたので、それだけで十分と言われたら、言い返しはできない。
そんな父親であったので、四人の子供には、嫌が応にも影響はあり、大人になってから、それぞれの中に父のDNAが見え隠れしている。
私の中にも、大嫌いな父が出て来たり、優しい母が出て来たりでややこしいが、受け止め出している自分がいる。
世の中には、自分にとっては鬼親、毒親であったとしても、紛れもなくこの世に生を授けてくれた人間として、認めねばならない。
だからと言って、権力に屈服することはないと思っている。
どうあれ、別人格であることは確かである。
私は私、親は親。
父が亡くなった時に、涙も出なかったことが、1番の悲しみであったことは確かである。