悲しみを分かち合う。

誰かのために、働く仕事を選んでしまったので、70代になっても、まだまだ、仕事が終わりそうもない。
時々、「旅行とか、お食事とか行かれないのですか?」と、不思議そうに尋ねられる時があるが、引きこもりではないが、最近は、行きたくなくなって来た。
若い頃から、病気とは無縁で、海外、国内、
他人の用事にも、便乗してついて行くほど、
出歩いた。
見たい、聞きたい、知りたいと、好奇心と欲望が一緒になって私を駆り立てた。
多分、その頃は、日本もバブリーで、誰もが、
浮かれて、そのどさくさ紛れに、動き回っていたのかも知れない。
振り返れば、旅行も、お食事も全て、仕事の延長だったので、個人的には、あの国、あの場所、あの人と言う、目的はなかったように思う。
人からは呆れられるほどの暮らしも、60歳を超えてからは、身体的な理由もあるが、精神的な理由で、楽しい旅行や愉快な友人たちとの会食は、あえて行かなくなったのである。
あまりに悲しい出来事や、苦しんでいる人達と出会ってしまい、私の家族でも、親戚でもないけれど、等しく心が痛む。
「割り切ったらいいんじゃない?」とか、
「たまにはストレス発散したら?」など、言われるが、何をしてても、関わった人たちの顔が
浮かんで来る。
ノイローゼのような重さはなく、今も、私の中では、医療や介護の臨床現場は継続しているのである。
そして、追い打ちをかけるような災害が繰り返されている日本、命に関わる豪雨、命に関わる
気温など、確かにかつて味わったことのない出来事が起こっている。
そんな時だからこそ、静かに、じっとしていることが賢明であると信じている。
微力な私ができることは、同じ思いを共有し、祈ることしかできないのである。