入院したいけど。

「もう、この状態なら入院でしょう」
と、思っても、今はやすやすとは入院に、ならないのである。
独居の高齢者で、慢性疾患があり、意欲もなくし、身体的に体力は低下して、ベット上で寝たり起きたり、一日中、同じチャンネルのテレビが付けっ放し状態である。
食事はあれば食べるがなければ食べず、辛うじて、最低限トイレだけには、這うようにしていく。
見た目にも、十分なほどやつれ眼は死んでいる
診察に連れていくと、検査結果のデーターが、よほど、基準値を逸脱していない限り、
「慢性疾患は、最悪ですが、他のデーターが悪くないので、しばらく様子を見ましょう」
なんなんそれって?
一人では立ってられない患者であっても、
入院は拒否である。
家に帰れば、世話をする人も無く、一度の食事だけを、届けてもらえるだけの、地獄の現状である。
高齢者の介護保険も、最初は鐘や太鼓を鳴らさんばかりに、押し進めたが、保険料の財源不足、人手不足が、想定外に厳しく、急性期の骨折や、脳血管障害で、身体が不自由になった人たちには介護保健は導入されるが、慢性疾患で、治る見込みのない人や、家の中で、辛うじて動ける人には適用されないのである。
さらに、医療保険が適用される長期療養病練の
ベット数を、減らす方向に向かっているのである。
保険料はきちんと取っておきながら、お金の見込みがなくなれば、このような処置を行なう政府は残酷である。
今や、入院できる手立ては、急性期の大病か、
脱水症、熱中症、肺炎で、救急車で運んでもらえれば、入院はできる可能性はある。
高齢者は、死にかけない限り、無理である。
それが、文化国家、福祉国家と言えるのかと、
憤慨はするが、少子高齢化の歪みは、もはや現実のものとなり、
「老後の面倒は国が見ますよ!安心してください!」という選挙の言葉は大嘘になる。
なんとかしてくれるだろうという、甘い判断はやめにして、まだ間に合うならば、自分でどうにかして、生き抜ける知識と知恵を、保持しなければならない時代に来ていると思う。
ヘルパーさんも来なければ、いつまで待っても
デイサービスのお迎えバスがこなくなる日は必ずやってくる。
若い人たちに依存せず、国にも期待せず、
後部座席から、少し見守ってもらいながら、
高齢者同士で助け合えるシステムを作り出し、「老人党」みたいな政党を立ち上げれば、
なんて、夢みたいなことも考えてしまう。