タイルが剥がれた後に。

母が93歳のお誕生日を迎えた。
少し、足が不自由になりはしたが、家の中でも、きちんとお化粧をして、身なりを整えて、
人と話すときは、ベットの上に腰掛けて対応する。
後、20年で、私も同じくらいの年にはなるが、まず、ありえないとは思ってはいる。
由緒正しい家系に生まれ、超お嬢様であったにもかかわらず、当時は、女性では珍しい医者という職業を選んだ。
高校生の頃、体調を崩し、母の勤務する病院の中で、ピンヒールを履いて、白衣をひるがえして歩く母の姿を見た。
あの時の、輝くようなピカピカの母の姿は、今はない。
宇宙の法則通りに、確実に、人は老いて死んでゆく。
変わらぬ日常生活の日々の中で、ビカビカだったタイルは色あせて、一枚ずつ、カラダから剥がれ落ちる音が聞こえてくる。
早い、遅いはあっても、張り替えることはできず、ごまかしきれず、受け止めて行かねばならない。
しかし、自分色のタイルが落ちた後の、素地が問題なのである。
その人の本質が見えてくるのである。
入り組んだ蔦が絡まってしまった土台。
タイルを貼り付けた時と変わらぬ土台。
サラサラとしていた土が、岩のようになってしまった土台。
それぞれの長い人生が、そこに反映される。
たとえ、どのような形で、姿を現しても、
生きた証であると思う。
若いドクターに対応する時に、
「そんな言い方したらあかんでしょう」
と、ドキドキするが、それが、母であり、
母の素地である。
タイルが剥がれた後に、どのような姿が現れても、私達は、しっかりと胸に抱きしめなければならない。