人生の最後に「生きた証」が見えて来る。

大人は、直ぐに、

「それあかん」「あれあかん」と、

子どもや若者達に、否定する。

 

「それ良いやん」「素晴らしいやん」と、

最初から、肯定しない、

まだ、やってもみないうちから、

「無理やろ」「厳しいやろ」と、

自分を基準に、考える。

 

そして、

うまく行かず、失敗すると、

「やっぱり!」「いうてた通り!」

いくら、親でも、

野次馬根性やめといて!

 

高校生の頃、

アメリカに留学したいと、

父親に言ったら、

「毛唐」の国に、何しに行く!

と、信じられない差別言葉が、

返ってきた。

 

未来を夢見て、

自由な発想も、

親はどう思うだろうと、

最初から、「二の足」踏んで諦める。

 

もちろん、

我が子は大切であるが、

一人の人格を持った、人間である。

「親が指し示す道」は、何本もあるが、

 

良きことばかりも、言えないし、

悪しきことばかりも、嘘になる、

子供の方も、

「不幸せ」、になれば親のせい、

「幸せならば」、親ガチャ、ラッキー

 

長い人生の中には、

船の転覆あり、

飛行機の墜落あり、

今なら津波で、幸せが流される、

 

紆余曲折の道は、

数々あれど、

「どの道」を選ぶかではなく、

「どんな風に」道を、歩くかである。

 

「宝くじ」は、

当たらないと、思って買うが良し、

「勉強」しなければ、

国立大学には合格せず、

「富裕層」に、成るには、

なったことがないので、返答できず。

 

そんなことが、

人間の目的ではなく、

人生の最後に、

「生きた証」が、見えてきて、

はじめて、

どんな人生だったかと、わかるのである。