「自殺ほう助」は、救いですか?

朝、目覚めた時から、左脚が痛んでいる。

窓の外を見なくても、部屋の中に、

低気圧が、充満している。

 

こんな日は、痛みとの戦いである。

コロナウイルスは、

まだ、私の体内には侵入してはいない。

 

しかし、私の身体を苛むこの痛みの原因は、

私の肉体の一部である。

50代の頃に、無理を重ねた仕事で、

脚を傷めていた。

自ら、人工骨頭手術は否定して、

温存療法での治療を、選んだ。

 

バランスを欠いた肉体は、

静かに、ゆっくりと、20年の月日をかけて、

蝕まれていった。

 

数ヶ月前に、不自由な脚で階段を踏み外し、

それ以来、強烈な痛みに襲われる。

ジンジンでもなく、チクチクでもない。

鉄の棒の様な脚が、柔らかな肉体から、

引きつれた様に、突き出している。

 

こんな時は、痛み止めの薬など、

効きはしない。

自己判断で、安定剤を服用する。

骨でもなく、筋肉でもなく、

張り巡らされた神経を、押さえ込む。

 

神経に取り付いた痛みは、免疫力など、

手も足も出ないのである。

私の脳が、指示命令を出せば出すほど、

痛みは、増幅してゆく。

脳を緩和する、まやかしの安定剤が、

なぜかよく効いてくれる。

 

ありとあらゆる手を使って、

私が、私の分身と闘う。

マスクもソーシャルディスタンスも、

何の役にも立たない相手である。

 

今朝、

ALSの女性を、2人の医師が、

薬物で嘱託殺人と言う衝撃的なニュースが、

流れた。

まだ、詳細は分からないが、

海外なら「安楽死」であり、「自殺ほう助」

である。

 

「やっと死ねる」と、

この自己決定が通る迄には、

長い経緯が必要である。

日本は、自由と権利の国ではあるが、

この「安楽死」や「自殺ほう助」の

死の権利を、認めてはいない。

 

宗教心の薄い、日本では、

死生観を語らない民族である。

私は、「デス エデュケーション」

は、教育のカテゴリーに入れるべきだと、

思っている。

 

苦痛と絶望の日々の中で、

生きる目的さえ見出せない人が、

もし、自分の出口が見えたなら、

私でさえ、ホッとするものがある。

 

医療や科学が進歩する時代にこそ、

安楽死」と言う問題は、

議論を進めていかねばならないと思う。

暗闇の中で、置き去りにされている様に、

思えてならないのです。

 

いつの日か、

私にも、そんなことを考える日が、

来るかもしれない。