成人式に思う事

成人式のルーツは、

終戦後、

親達は、疲れ切った中でも、

若者達には、希望をもってほしいと願い、

始めた式典と聞いている。

 

私たちの頃は、

着物のレンタルもなく、

親のお下がりの着物を着たり、

洋服姿も、多かったように思う。

 

母が作ってくれた着物を着て、

着慣れない苦しさや、動きにくさに、

大人になるという意義も意味も、

あまり、深く考えず、

友人達と、キャーキャーと過ごした、

記憶だけが残っている。

 

若者達が、あちこちで、

「大人気ない過度な行動」

をしたニュースが、聞こえてくるが、

「出来たて、ホヤホヤの大人」

なので、致し方なしとも言える。

 

成人式を迎えたからと言って、

大人として認められた事ではなく、

事あるごとに、

「もう、二十歳を過ぎてるんでしょ!」

と、言われ、

「この責任は、子供ではないので、貴方!」

と、言われるのである。

 

子供の頃から、

通信簿の欄にある、

「責任感」には、いつも◎がついていた私は、

いよいよ、私の活躍できるステージに、

なったと、漠然と思っていた。

 

子供のお手伝いみたいなアルバイトから、

社会保障のついた正社員になり、

晴れて、社会人!

に、なって知った事は、皮肉にも、

「大人の無責任さ!」であった。

 

学生時代の師弟関係ではなく、

お金と地位の絡んだ上下関係。

逆らえば、首にもなりかねん

嫌われて、飛ばされる、

 

何処かの責任感のない政治家達のように、

高いお給料だけもらって、

仕事は、部下に押し付け責任転換。

 

やっと、

親からの呪縛から解放されて、

一人前の大人として、認められると、

スタートを切ったが、

知れば知るほど、魑魅魍魎の世の中である。

 

吹き荒ぶ嵐の中を、

小さな船で、生き抜いては来たけれど、

一筋縄ではいかない社会で、

鍛えられ、考えさせられての、

大人になるための修行。

 

これからの、

若者達には、こんな理不尽な修行は、

決してあってはならないが、

人間が作る社会に、期待もできず、

自分で、知識を習得して、選別する。

 

今日も、また、

成人式に、ついてくる親の姿がある。

親離れできない子供、

子離れできない親、

まだまだ、「成熟した国」には、

程遠いのである。