「私の死体」は、見せないでほしい

朝から、不謹慎だが、

ふと頭をよぎる。

「私が死んで」も、

指定した人以外には、

「私の死体」は、

見せないでほしいとの、願いがある。

 

明らかに、

生命を宿した人間とは違い、

「造られた人間の姿」が、

空洞化して、横たわっている。

 

幼い頃に、亡くなった

「お母さん!」

呼べども、応えないのは必然で、

もう、目の前にいるのは、

「お母さん」ではないからである。

 

顔貌が、そっくりで、

さわれば、ほんのり、

ぬくもりが伝わってくるような、

リアルな「物体」

否定などできない、

現実のピリオドを、認めることになる。

 

魔法の棒で、ふれば、

一瞬で消えて、

呼べど叫べと、カルシュウムがのこるだけ。

 

最近は、

昔の様に、

お葬式に、何百万もかけて、

当事者の貢献を讃えたが、

いまは、

「小さな家族葬」が、流行っている。

 

私などは、

病院から焼き場に行き、

そこから、海に骨をまく。

ドンブラコと、流されて、

チリと消えるのである。

 

残された人たちからすれば、

身内は一箇所に、

そろって、眠っていてほしいが、

歌の文句にある様に、

「私は、そこには、眠っていません!」

 

「死んだ人」と、

この世で出逢い、

最期まで、絆はきれずにきた、

大切な関係ならば、

「我が心の一部」になって、

次に自分が死ぬときまでは、

決して忘れることはないのである。

 

立派なお墓に、

思い出の写真に、

懐かしい物に、

残るのではなくて、

「次なる人の心」に、残像化されて、

バトンタッチしてゆくのである。