思ってもいなかった人生。

朝、家を出ると、あまりの寒さにコートの襟を立てた。
歩き出すと、少し、心臓が緊張して来る。
ヨーロッパの冬のような冷たい風と、太陽の出ない暗さの道を、久しぶりに低いヒールを履いて出かけた。
「途中で痛くなるかも」
との、不安を振り払い、細いヒールに足を入れた。
グレーのカシミヤのコートには、
「ぺったんこの靴」は似合わない。
学生時代、三宮のセンター街に、唯一海外から直輸入のお店が一件あって、ウィンドーには、メイドインジャパンではないファッションが、美しく輝いていた。
見たこともないカラフルなピンヒールを履くような女性になりたいと、夢見ていた。
休日には、一生懸命アルバイトをして貯めたお小遣いで、夢見た一点ものをゲットしていったのである。
英語やイタリア語で書かれたタグを見て嬉しくて、いつの日か海外で働きたいと夢見ていた。
窮屈な家族、閉鎖的な社会、偏見の多い世の中から、脱出したいと願っていた。
何十年の時を経て、そんな夢見る夢子は、気がつけば、思ってもいなかった人生になっていたのである。
訳あって就職できない若者たち、社会から弾き飛ばされた人たち、病気と孤独で生きていけない人たちのお世話をする人生を送ることになってしまっていた。
ピンヒールもカシミヤのコートも身につけては走れない、ドヤ街や田舎道を駆け抜けた人生であった。
希望の光さえ見たこともない人達の命を、暮らしを確立するために、自分の事は後回しの人生であった。
若い頃には思ってもいなかった人生にはなってしまったが、私もまた人の助けを必要とする歳になり、今は、救いの手の中にいる。
「転倒したら怖いから、スニーカー履かれたらどうですか?」
の、周りの助言を無視しての私の小さな夢を、
時々、こっそり実現しているのである。