「命日」は、忘れない。

歳を重ねてくると、

寂しい話が、

「命日」の数が増えてくる。

 

人の結婚式は、出席しても、

他人の「結婚記念日」など、

忘れてしまう。

 

親しかった人、尊敬していた人、

亡くなるまでの経緯や、

亡くなる原因によっては、

「命日」が、近づくと、想い出す。

 

その頃の季節感、

その時の社会状況と共に、

自分ごとの中に、含まれての、

悲しみの出来事。

 

間近で、静かに見守っていると、

その時までに、覚悟も出来るが、

唐突に、

風の便りで聞いたりすると、

受け止めるまでは、時間がかかる。

 

お互い、元気でいる時は、

自由に会って、お付き合いを深めるが、

健康を損なうと、

家族の包囲網を、越えられず、

会えなくなる。

 

他人であっても、

奇跡の様な縁があり、

国を超えて、繋がっていた友人も、

 

企業の「あるべき姿」を、

何処までも、追求して、

零細企業を救って来た、

有資格者の知り合いも、

 

死ぬには、早すぎ、

生きていてと、願った人の、

悲報が、届くたびに、

人の、「儚さ」と「切なさ」に、

心が揺れる。

 

たとえ、この世から、姿が消えても、

私が死ぬ日までは、

私の心の中で、

今も、なお、生き続けていく、

忘れる事は、ないのである。