「弱者」と言う言葉が無い、世の中を願う

「長距離」の、

歩行が、困難になり出した頃から、

「車椅子移動」に、切り替えた。

 

「立って歩けてた」頃の、

目線とは違い、

車椅子からの、風景は、

経験してみないと、分からない。

 

人は、

「動体視力」で、歩いているが、

自分の腰より下には、

意識が、薄く、

近くに来て、初めて気づくのである。

 

酷い時には、

車椅子の私の上に、

人間が、衝突して来る事もある。

 

「最近」になって、

障がい者の人達や、

高齢者や、乳母車を引いた人達からの、

「訴え」を、

メディアが、取り上げる様になった。

 

「文句」ではなく、

「気遣い」を、求めてはいるが、

残念ながら、

日本人には、「観念」が薄く、

難しい問題である。

 

「意識」の中に、

「弱者」が、存在していないか、

それとも、

「見て、見ぬふり」もあり、

 

「教育」以前の、問題でもあるが、

其々の国の、

「文化、宗教、思考、習慣」が、

関係している様に、思える。

 

特に、先進国では、

車椅子の人達や、

小さな子ども達を、連れてる人達が、

困っていると、

誰もが、手を差し伸べる姿を、

「当たり前の様」に、見かけた。

 

「観念の中」に、

その人達に対して、意識があり、

何か、起こって、

飛んでくるのではなく、

困らない様に、

「側」に、寄り添っている様に、

感じていた。

 

日本の中では、

まるで、

規則の様に、促され、

「弱者には、手を差し伸べて」

の、ポスターみたいに、

「問題視」されてる事も、

おかしな話である。

 

誰もの、心の中に、

横たわっている、

「優しさ」や、「美意識」

まるで、

「呼吸する様」に、

自然に、出なくても、

 

脳の中に、

幾つもの「苦しみや、痛み」が、

インプットされていれば、

「お手伝いしましょうか?」と、

声を、掛けれるかもしれない。

 

本来ならば、

「弱者」と言う言葉すら、

無い世の中を、願っている。