最期の、「難しいハンドリング」

「あそこの施設」に入ると、

どんな小さな病気も、

心の病も、

いち早く発見してくれて、

医療連携が取れた、

質の高いケアライフが出来る。

 

と、言われるような、

高齢者施設に、出会ったことがない。

私の年代になると、

嫌でも、

「老後の暮らし」を、

決めなければならない。

 

一昔前、

介護保険がなかった頃」は、

自宅で、

年老いた親を見るのは当たり前、

寝たきりになろうが、

認知症になろうが、

子供や、嫁の勤めであった。

 

「老衰で、大往生」が、

人生の証のように言われてきたが、

現代では、

自宅介護など、夢の話で、

自立が難しくなると、

いつの間にか、施設に入所されたと、

風の便りで聞く事になる。

 

「畳の上で死にたい」と、

言われていた意味が、そうなのか、

私達の代は、

出来れば、最後は、

医療の行き届いた病院で、

最後を迎えたいと、願ってはいるが、

 

昔のように、

高いお金を出してでも、

個室を確保することが、

制度的に、不可能になった。

 

医療措置が無い限り、

長期療養は、

病院ではなく、

介護保険の「施設」となる。

 

「期限のない」人間の寿命、

「長生きが美徳」となった現代社会、

「生き死に」は、自由にならず、

長生きすればするほど、

子供に対して、申し訳ない気持ちがつのる

 

施設にもいろいろあって、

費用が安ければ、

待遇は、お粗末で、

人手不足や、虐待の噂まで、

聞こえてくる。

 

逆に、

たとえ、高額な施設だからでも、

痒い所に手が届く事もなく、

お金さえだせば、

自由な暮らしが出来るとは限らない。

 

多少身体が不自由になっても、

脳が、衰えず、

精神的に自立され、

施設に入るまでに、

人生の整理と覚悟がない限り、

 

「まあ、最後はこんなもんか」と、

納得のエンディングには、ならず、

車の運転のごとく、

最期の

「難しいハンドリング」が残っている。

 

いつの日か、

今、赤ちゃんの貴方にも、

必ず、来る問題である。