玉ねぎのせいにはできない、涙

とっくに、

70代の真ん中を超えて、

「80代」が、目の前に見えてきた。

とは、堂々とは言えないが、

 

「何気ない朝」に、

玉ねぎを刻んでいたら、

あたりまえだが、

「涙」が、滲んでくる。

 

玉ねぎのせいにしてるけど、

本当は、

自分の「悲しみの涙」かも、

知れないと、思う時がある。

 

以前は、

「いつか、死ぬんだろう」と、

ちょっと他人事風に、

感じていた「死」も、

今は、

「今年、一杯、生きれたらいいかな」

と、いう切実な現実も感じる。

 

もはや、他人の世話になり、

ご迷惑もなきにしもあらずで、

「誰かの為」に、

「何かの為」に、

役立つ事は無いかしらと、

まだ、考える事もある、

 

もったいないほどの、

頭脳明晰でもなく、

貴重な程の、

特別枠があるわけでも無いが、

 

「逝きかけていたあの人」を、

とどまらしたり、

「喪失した物を上回る」ほどの、

資格の取得に、支援したり、

 

一生懸命、

人のことを考えていたら、

いつの間にか、

「自分が支援される側」に、なっていた。

 

子供の頃から、

病気一つ、けが一つしなかった私が

今や、

脚には、「人工骨頭」

心臓には、「ステント」

なんとか、命を繋いでいる。

 

「そろそろ、終わりかな?」と、

我が命のことは、

「神様まかせ」で、

玉ねぎが、切り終わる頃には、

いつも通りの、

私が、蘇って来る。

 

忘れた頃に、

昔の知り合いから、

連絡があり、

「おかげさまで!」との、

言葉を、聞けば、嬉しい限りである。