一度「愛したら永遠に」

「弟だけいない」私に、

母は、

姉、兄、妹を、残して、

40歳にも、手が届かない若さで、

あっけなく、「死んだ」

 

「軍人上がりの亭主関白の夫」の、世話、

「四人の子供達」の、育成

認知症の姑」の、介護、

 

華奢な細い身体で、

まともに、

食事などとる、時間もなく、

寝る暇もないほどの、生活に追われ、

 

まだ、若い、

四人の子供達を、残して、

あっという間に、「死んだ」

 

60歳の、若い祖母は、

「なんで、子供が先死ぬの!」

と、泣き続けていた。

親の言いなりで、

経済的には、豊かな家に、

嫁がせたことを、

深く、悔いていた。

 

私達が、大人になって、

随分、後になってから、

「あんたらのお母ちゃん、

結婚する前、好きな人がいたんよ」

と、打ち明けられた。

 

本当は、

「あんたらのお父ちゃんとは、

結婚したくなかったんよ」

プロテスタントの女学校に、

行ってた母は、牧師様を好きになった。

 

戦争が終わり、

「戦死」の通知がとどき、

帰らぬ人を諦めて、

「絶望の中」で、

親が決めた、父との結婚であった。

 

男尊女卑が色濃く、

残っていた時代に、

女の子が、生まれても、喜ばす、

「膝の上に、誰一人のせること」も、

しなかった父、

 

妹、私、姉を、

慈しみ、愛してくれた母とは、

妹は、たった12年、

私は、14年、

姉、18年

寿命100年と言われる時代から見れば、

霞がかかったような、

「儚い時間」でしかない。

 

それでも、

三人は、母を忘れなかった。

一言一言を、心に抱き、

父が、次なる母を連れて来ても、

父が、我がことしか考えない人でも、

 

私達に愛を、与えてくれた母が、

側にいたのである。

一度

「愛したら、永遠に」

魂に残る事を、

娘三人は、知っているのである。

 

悲しくても、

苦しくても、

さみしくても、

遠く離れていても、

「この世で繋がっていること」を、

忘れた事はないのである。

 

母の50回忌を越えてから、

肩身に残されていた、

怖くて、読むことさえできなかった、

「母の日記のページ」を、初めて開けた。

 

そこに書かれていたのは、

私達の、想像とは違い、

死ぬ寸前まで、

「愛する父」や、「可愛い子供達」を、

お世話できなかった事の許しが、

切々と、

書かれていたのであった。