「気遣い」と「気を使う」の違い
最後の日まで、
独居を貫き、
「一人静かに、この世を去る」が、
理想であったが、
最近、少し変わって来た。
社会からは、
もはや、「排除された歳」ではあるが、
身体が、心が、
弱ったからではない。
「他人と、一つ屋根の下で暮らしたい」
いわゆる、シェアハウスである。
友人達は、みな、
「えーっ!そんなん気を使うやん!」
「家族じゃないと、気を使うでしょ?」と、
心配する。
聞いた相手も、びっくりしたが、
私もびっくり!
「人に対する気遣い、人に気を使う」のは、
当たり前の行為だと、生きて来たので、
それを否定されたことに、戸惑うし、
日本は、
我が家族、我が人生、我が先、
身内も、他人も、同じ人間として、
理不尽な「他人行儀」が、居座る。
差別の始まりは、
ここからかも知れない
現実は、
「家族であるが故」に、
感情論や、愛の歪みで、
深く傷つき、「気遣い」で疲れはて、
お互いが病んでゆく。
「他人だ」と、
其々良い意味での
利益の為に、合意して、
お互いの不利益を生じない為に、
「気を使う」だけの話である。
小さな家の中での、
共同生活、
全く、「話し合いができない」人、
生き方が、「かなり違う」人、
前提条件、「好き」な人
で、なければならない。
長い年月の中で、
身内の中で、壊れてゆく「関係性」
剥き出しの、「感情論」
家族だからこそ、
使わなければならなかった、
愛ある「気遣い」
親子として生まれ、
兄弟姉妹、
夫婦という、にわか家族、
大切であればこそ、
助け合い、寄り添い、
人生を作り上げて、
「ゆかねばならない使命」があった。
支持命令で、人間は生きられず、
壊したくない関係性を、
保つために、「我慢したり」
幸せにと願うばかりに、
子供を「不自由にしたり」
まっぴらごめん。
まもなく終わる人生、
何の因果関係もなく、
「秩序を守れる人達」と、
「いい距離感」で、暮らしていきたい。
100年後の未来には、
家族という枠組みは、
もはや、ないかもしれない
「この指とーまれ!」と、
掲げたら、何人の人が、止まるだろうか?