おむつ交換

赤ちゃんのおむつ交換ではない。
成人の排泄介助である。
まだ、右も左も分からなかった頃、
医療系の施設で、初めて、排泄介助という業務に、携わった。
女性は、赤ちゃんを育てた経験があるから、
「大丈夫ですよ。」と、看護部長が言ったのは、真っ赤な嘘だと、知ったのはその時である。
パンパースのチィッチャな、おむつではない。
寝たきりの人などは、夜中に漏れる事もあり、
ベットにシートが敷かれ、何重にも種類の違うものが、あてがわれている。
体調が悪く、下痢便だと、ベット柵の穴にまで、流れ落ち、シーツ交換までしなければならないので、夜中の排泄介助は、大変である。
命に携わる現場は、ただ、治療だけではない。
ほとんどが、動けなくなった人の日常生活を支えていかなければならない。
どんなに大きな家で、優雅に暮らされていた人も、施設に入れば、小さなベットだけが、自分のテリトリーとなる。
食事、排泄、入浴の三大介助の繰り返しの業務の中で、排泄介助は、職員にとっては、個人差があるが、非常に難しい。
命を助ける仕事を目指して、この職務を選んで来た人達も、他人の排泄物を見たときは、
臭い、量、状況に圧倒され、生理的に、受け付けることができず、この仕事を断念していく人も多くいた。
私は、抵抗がないわけではなく、
只々、本人が一番気持ち悪いだろう、恥ずかしいだろうと、早く、綺麗に、早く、処置をしたげたい一心で、向き合った。
下半身をむき出しにされ、人間の身体の中にあったものだが、外に排泄した瞬間から汚物あつかいとなり、他人の目の前にさらされることの屈辱に耐えなければならない。
する方もされる方も、現実に直面する。
意識のある人はなおさらである。
「ごめんなさい」「すみません」
謝る必要もないのに、そんな言葉が、お互いの口から出てしまう。
後に、私が、講師となり、技術を教える時に、
「排泄介助は食事介助の一環であり、食べれば、必ず出るわけで、でなければ命に関わることであり、食事介助した後、食べたぶんだけ確認出来て、終わりです」
と、伝えて来た。
人から見れば、歯磨きから始まり、着替え、食事、トイレなど、生活の中で、無意識にしていることで、簡単!な事と、思いがちだが、
いざ、自分が当事者になった時には、
精神的にどれほど厳しいものかを、経験する。
そして、それを支える看護や介護の人達も、
相手に苦痛を与えず、見事な介助ができる、高度な技術を習得する。
「あら、もう、終わったん?」
と、言わせるほどになれば、
「一人前」である。
たった一人の人の1日を支えることは、大変な作業である。
その積み重ねが、その人の大切な人生を支えることになるからである。
そして、人の人生を支える側も、
その人にとっては、貴重な崇高な人生になって行く。