悲しみの変換能力

昨晩、知りあいから、一本の電話が入った。
「あの人、体調崩して、おかしくなってるらしいよ」
「天罰が来た!」
不謹慎にも、思わず心の中で、呟いた。


物心ついた頃、この人の言葉と行動で、人間に対して、初めての不信感を抱いた。
決して、疑われることのない立場で、小さな、弱い立場の子供の心を深く傷つけた。


あれから70年近く経ったが、決して忘れることはない。
本人にも、周りの大人たちにも、訴えることも出来ずに、心のひだの中に、痕跡は見え隠れしていた。

豊かな経済力を持ち、家族を大切にして、社会の中でうまく立ち回り、表彰状をもらってもおかしくないほの、善人を演じて来た人である。

しかし、私の見る角度からは、真っ黒な汚れた手を持った人として、残存している。
その人から、生まれて初めて知った人間に対する不信さや、卑怯さや、恨み。


長い人生の中で、そんな人ばかりではないことを教えてくれた人たちと出会い、客観的に人間の種類を分別出来たのである。


世の中には、何事もなかったような顔をして、カミソリのような刃で傷つける人もいれば、何事もないような顔で、叫び声もあげず、流れる血をぬぐい、受け止める人もいる。


人が人を裁くことはできないことを知り、
恨みの想念を排除して、毅然と未来を見据えれば、どれほど傷ついても、生きていけるのである。

自分もまた、誰かを傷つけ、
「早く、死んで!」
と、思われていたとすれば、これほどの悲劇はない。

人から受けた傷は、人からしか癒されない事を
知っていれば、今回の様な川崎の事件は無かったかも知れない。